私は現在、リハビリテーション(以下リハ)科の部長として働いている。
リハ科の前は、阪大の漢方医学寄附講座(ツムラ)の常勤医として働いていた。その前は整形外科の医員である。漢方医、リハ医と肩書上は立場を変えてきたわけだが、基本は整形外科医であって、それにプラスして、ということである。そんなわけで、今でも整形外科外来に出ているし救急対応もしている。
この原稿は「女医の人生を紹介し、後輩へエールを送る」趣旨の依頼に応じたものだが、依頼の理由は、私が整形外科の女医で、仕事も子育てもやっている人と認識されたからだろう。結果から見れば確かにそうだが、字面のイメージを裏切って、実態は傷だらけでみっともない半生である。反面教師にもならないだろうが、たどってきた仕事人生を記載し、整形外科の女医への助言で締めくくりたい。
なお、原稿の性質上、経験を語るのが前提であるから、子育て話が多くなるがご容赦いただきたい。
整形外科医に漢方医という肩書が付いたきっかけは、漢方医学寄附講座(ツムラ)で助手のポストがあいているから応募してみないか、と当時の整形外科教授だった吉川先生に声をかけていただいたことだった。大学院を卒業し、生後半年の長男の子育て中のことである。
長男は、とても体が弱かった。一か月のうち一日しか保育園に登園できないこともあったし、朝から熱を出してそのまま入院、なんてこともあった。時間のよめない手術や術後管理は自分には無理だと悟り、整形外科医を続けられるのか不安だった時期に、偶然にも声をかけていただいたのである。
「芍薬甘草湯しか知らないんですけど」と私は恐る恐る告げた。実際、漢方薬や東洋医学のことは何も知らなかったのである。吉川先生は「大丈夫や、勉強したらええねん」と笑われた。こうして私は漢方医の入り口に立ったのである。
知識ゼロの私に声をかけるにあたっては、吉川先生にしてもかなり逡巡されたと推察する。だが、子育てしながらもなんとか仕事を続けさせてやりたい、という親心だったのだと思う。誠にありがたいことである。さらにラッキーだったのは、私が漢方初診者と知ったツムラの当時の担当者が、読むべき教科書や本、聴講すべきDVDやセミナーをすぐさま列挙し、適切な助言をしてくれたことだった。助手、助教、講師、そして招へい准教授と重ね、十年以上勤務できたのは、吉川先生やツムラの方々のおかげである。
さて、リハ医の話をしよう。大学を辞しリハ医として臨床に戻ったのは、次男の中学受験を視野に入れた頃で、子育てと仕事の両立を呻吟した結果でもある。
リハ医の仕事は、各科の医師から出されたオーダーを受けるところから始まる。設定したゴールに向け、どのような訓練をするか療法士たちと相談し、実施していく。実施する際は、関節可動域や筋力の向上はもちろん、どのような動作ができるようになりたいか、という本人の希望も重視する。「どのような動作をしたいのか」とは、「どのように生きたいのか」と同義だからだ。
当然限界はあるので代替案を提供することもあるが、療法士たちの一途さと情熱の持つ力に驚かされることもしばしばで、そんな時は一編の小説を読んでいる気になる。リハ医の仕事は、派手さこそ無いが、趣の深い仕事である。
整形外科医をやっていれば、一時的にでもリハ医として着任するケースはままあると思う。少々遠回りに思えても、機会が与えられれば、臆さずやってみればよい。少なくとも骨関節疾患を多方面からとらえるチャンスにはなろう。
よく言われるが、子供が幼い頃は、綱渡りのような毎日である。いきなり熱を出した、お腹をこわした、咳がとまらないなど、諸々の出来事が急にふりかかる。そのたびに私は、職場に謝り、助けてくれる実母に謝り、息子に謝り、疲労困憊した。いったい何をどこへ謝っているのかわからなくなり、一人でよく泣いた。
ありがたいことに、子供たちが長ずるにつれ、助けてくれるママやパパが少しずつ増えていった。彼女たちは、息子たちを学校→お稽古事→我が家へ毎週送迎してくれ、旗当番を代わってくれた。突然の雨の時には、息子たちを車で学校に迎えに行ってくれたし、親子参観に私が行けない時は、代わりに行って親子工作を引き受けてくれた。そうやって、十年以上、変わらぬ濃度で助けてくれたのである。どれだけ救われたことか。いつしか私は一人で泣かなくなっていた。
女医、しかも整形外科を選ぶような人は、一匹狼でも平気な人種だろう。だが、仕事をしながらの子育ては、援助なしでは不可能と言っていい。味方を一人でも多く見つけることをおすすめする。余談であるが、彼女・彼らとやったPTAの本部役員の経験は、かけがえのない思い出である。
医師は、人生の大部分を並々ならぬ努力で潜り抜けてきた人たちだろう。だが、子育ては努力だけではなんともならない。一人でできることには限界がある。したがって、お金でなんとかなる家事は他人に任せればよい。
私の場合、子供が小さい頃は、掃除は家事代行サービス、買い物はネットスーパーを利用した。一週間分の献立表を週末に作って、材料を予約注文すれば、買い忘れはなくなる。
給料の大半は上記で消えたが、一時期のことだと割り切った。その代わり、自分にしかできないことは頑張った。例えば食事と勉強である。
食事は可能な限り手を抜かないようにした。ご飯がおいしければ、難しい年ごろになっても息子たちは家に帰ってくると思ったからだ。その目論見は今のところ成功している。
勉強は幼少期からつきっきりで教え、息子二人に中学受験をさせた。どこで躓いているかを把握するために塾のテキストや入試問題を解いて、適宜助言することを入試が終わるまで毎日続けた。小学生にとって、苦しい時に母親が一緒に戦ってくれていると思えることは、案外大きいようである。次男が卒業文集に書いた私への謝辞は、涙なしでは読めなかった。
焦らなくても、全体を俯瞰できる日は必ずくる。忙しい時は、自分にしかできないことに全力投球すればよい。
女性は整形外科医に向いているか。答えは否である。女医の占める割合が全科の中で下から三本の指に入るほど低いという事実が、それを如実に物語っている。リハや超音波、漢方、ペインなど、手術以外の研鑽を積むことは生き残るために重要である。専門医取得に挑戦するのもいいだろう。私は整形外科専門医、認定運動器リハビリテーション医、漢方専門医を持っているが、少なくともデメリットを感じたことはない。
矛盾しているようだが、整形外科の女医は、実は恵まれているのである。なぜなら整形外科の男性医師は、全科の中で一番優しいからだ。漢方医として全科の医師と関わった経験から私は断言する。整形外科医の優しさは、他科とは桁違いである。頑張っていれば、手厚く教え、フォローしてくれる人が出てくる。しかも増えてくる。細々でもいいから、希望をもって続けてほしい。
女医の数が増えることの是非はさておき、女医の人生―結婚・妊娠・出産・育児―はよく語られるようになった。だが、育児が終われば介護が待っているかもしれない、介護が終わる頃には自分に病が見つかるかもしれないし、フレイルになっているかもしれない、ということはあまり語られていない。健康寿命の短い女性にとって、自分のために使える時間は長くない。そう考えれば、進路に迷っても自ずと答えは導き出せるはずである。
医師の労働環境は近年見直されているし、改善してきている。希望を持ち、生かされていることに感謝し、後進のために道を創ってほしい。